妊娠・出産で就職のチャンスを逃し、ママプレナーの道へ
― 吉岡さんはもう10年近くNPO法人を運営されていますが、以前から独立志向をお持ちだったんですか?
いえ、実は私が妊娠・出産したのは大学院生のときだったんです。研究者になろうとおもっていたので、新卒採用の時期も就職活動せず、企業に就職するチャンスを逃してしまったんですよね。そのうえ子どもが8か月のときにパートナーと別れることになり……。大学院中退で何のキャリアもなく、乳幼児のいるシングルマザー。就職しようにも、雇ってくれる会社が全然見つかりませんでした。社会に居場所がなくなって、一つひとつ可能性が断たれる――その怖さをしみじみと実感しました。でもどうにか、子どもを育てながら生きていかなければいけない。そのために、自分のやることは自分でデザインしていこうと思って、アルバイトをしながらひとりで活動をはじめたんです。最初はそうするしかなかった、というのが正直なところ。
― それで1998年に「産後のボディケア&フィットネス教室」をスタートされたのですね。
そうです。でもやはり、最初は全然人が集まらなくて。チラシを自分で手作りして近所のスーパーに掲示のお願いにいったら断られたり、お世話になった助産師さんにお手紙を書いて産婦さんへのご紹介をお願いしたり、新聞社に手紙を書いたりしました。ちょうどインターネットをつないだばかりの時期でしたがまだその頃はユーザー数もすくなくて。その数年後、今でいうブログのようなものが流行りだして、それを使って情報発信もしました。当初はそれだけでは食べていけなかったので、フィットネスクラブで週5日働きながら、週1日だけ自分の教室をやっていました。
― 当時は、子育てと仕事をおひとりでこなしていたのですか?
たまたま私と同じような境遇で子育てをしている友人たちがいて、周りに小さなコミュニティがあったんです。だからいろいろな人が子どもの面倒を見てくれるし、自分も仲間たちに支えられるし……当時はそのおかげでなんとかなっていました。
「産後」についての情報が、どこにもなかった
― 事業をはじめるにあたり、なぜ「産後ケア」に着目したのか、そのきっかけを教えてください。
もともと私は大学院で運動生理学を研究していて、博士号を取得するつもりでした。取り組んでいたテーマは「体と心のつながり」。そのテーマと、自分自身の産後の経験がちょうど重なったんです。「育児」についての知識を得るなら、そのための本や情報は山のようにあります。でも「産後」の心や身体についての情報は、どこにもないんですよね。実際に自分が経験してはじめてわかるというか。「産後は骨盤がぐらついて立ち上がれないことがある」なんて、女性でもなかなか知らないでしょう?
― 確かにそうですね……!
出産を経験した女性も、「自分だけ特別だったのかもしれない」「みんなこんなものなのかもしれない」と思って、積極的に発信することはほとんどありません。さらに、専門家も不在なんですよね。産婦人科の医師は“出産まで”の専門家であって、出産後は接点がなくなってしまいます。医学的な観点から「産後」について研究している人がいなかったんです。
― なるほど。それでこの「産後ケア」の課題に取り組み、世の中に伝えていこうと思われたのですね。
もちろんそれもあるのですが……「女性を救いたい」という使命感よりも、まずは「自分が元気になりたい」というところからスタートして、そして「もっと面白い女性に出会いたい!」という気持ちの方が大きかったとおもいます。
― 面白い女性、ですか?
はい。母親になってからふつふつと感じるようになったのが、「私のアイデンティティは一体どこにいってしまったのだろう?」という疑問でした。子どものいる女性が集まる場に行くと、話題は旦那さんの愚痴や、育児の話で時間がすぎていく。彼女たちがどんな音楽を聴いているのか、どんな作家が好きなのか、どんな仕事をしているのか、パートナーとどんな関係を築きたいと思っているのか……“その人自身”の話を聴くことはまずない。でもそういう話ができる子どものいる友達がほしかった。どこにいってもそういう人には出会えない、ならばそんな話をしあえる新たな「場」を作ったらいいんだと思い、「産後のボディケア&フィットネス教室」という場をはじめました。
「産後」の問題が、社会の中でやっと認識されるように
― ところで、「産後」にまつわる社会環境や人の意識は、この15年でどのように変化してきたのでしょうか? ずっとこのテーマを追ってきた吉岡さんにおうかがいしたいです。
単純に、女性を取り巻く環境はずいぶん変わったと思います。10〜15年前、働く女性が結婚・出産を機に仕事を辞めるのは当たり前でした。それに対して強い疑問を持つ女性も、そこまで多くなかったでしょう。しかし最近はようやく、「女性も仕事を続けて当然」という空気が広がってきましたよね。まださまざまな問題はあるにせよ、復職支援制度を充実させている企業が増えています。
― そうですね。男性の育児参加が取り上げられることも増えました。
そうそう、夫婦のパートナーシップも変化した要素のひとつ。私が教室をはじめたばかりの頃は、通ってくれる女性たちにある種の“あきらめ”があるのを感じていたんです。
― “あきらめ”ですか?
あきらめというか、「夫婦はこれが当たり前、人生はこんなものだ」という価値観というか。
― ああ、なるほど……。
でも最近は多くの人が、自分のパートナーとよりよい関係を築こうと、いろいろと試行錯誤しています。自分は仕事を続けていきたいのに、家事や育児に夫を巻き込めていないなら、「じゃあどうすればいいか?」と考える。そんな女性が増えていると思います。母親だけが育児の責任をすべて背負うなんて、もう時代遅れ。女性も男性も、意識や価値観が少しずつ着実に移り変わりつつありますね。
― 一方で、「産後うつ」や「産後クライシス」、そして乳幼児虐待など新たな問題も取り沙汰されていますが……。
そうした問題が増えているように見えるのは、ようやく可視化されたから。「産後うつ」も「産後クライシス」も、ずっと昔からあったことです。しかしそれらは各個人の肌感覚、経験値でしかなかったので、解決すべき社会の問題として表に出てきていなかっただけでしょうね。課題として報告されなければ、統計は出ないので。
― 確かに……数値化されてはじめて、男女ともに多くの人がその問題の深刻さを理解できるようになった段階なのですね。
課題が見えれば、必ず対策を取ることができます。私たちマドレボニータでは、産後に直面する状況について夫婦がともに正しい知識を身につけ、それを産前からきちんと予防してもらうための活動を行っています。
夫婦がわかりあうための、“論理的かつ科学的な説明”とは?
― 産後の状態について、経験できない男性に理解してもらうのはなかなか難しいのではないですか?
「理解してもらう」「受け入れてもらう」以前に、まずは「正しい知識を知ってもらう」のが大前提であり、産後ケアに関してはそこがとても重要です。出産直後の女性はホルモンバランスや自律神経が乱れていて、しかも大イベントの後で精神的にもハイになっている状態。骨盤はぐらぐらしているし、子宮内から胎盤がはがれ落ちているしで怪我をしているのと同じだから、ちゃんと休養しなければいけない……科学的なデータなどを交えつつ、きちんと論理立て説明すると、むしろ男性の方が理解が早く、「妻はそんな状態なのか、それは大変だ!」と、出産後に妻が養生できるよう、その環境を整えることに積極的になってくれます。
― そうなんですか!
出産が原因で女性が変わってしまうわけでも、愛情が冷めるわけでもありません。ただ女性の体がダメージを受けていて、物理的に体力が落ちているだけ。本当はシンプルなことなんです。それなのに男性は「何かが変わってしまった」「ずっと機嫌が悪い」「俺をかまってくれない」などと思い込んで、すれ違ってしまう……。女性の体が産後どんな状態になるのかを正しく知っていれば、「今は養生が必要な時期、今はリハビリが必要な時期」と、時期ごとにお互いに認識でき、相手への配慮にもつながります。そうすれば夫婦で産後を乗り切って、お互いをねぎらい、ときには笑い合えますよね。
― お話をうかがい、「産後」についての知識をもっと多くの人が知るべきだと強く思いました。吉岡さんは、これからどんなアクションが必要だと考えていらっしゃいますか?
これは当事者である女性、夫婦だけの自己責任の問題ではなく、社会全体で「産後ケア」を支えていくべきだと考えています。そのためにも、たとえば教育という文脈では、高校の保健体育の授業などで取り上げてほしい。女性だけではなく男性も、早いうちに正しい知識を身につけてもらいたいですからね。また、現在の母子手帳には産後の記述は1ページもありません。母子手帳に産後の心身のことやそのケアの仕方が10ページ載るだけでもずいぶん違うはず。そのほか、産後ケアの教室に通う費用を自治体が企業が負担するなど、すべての人が格差無く産後ケアに取り組めるための社会的なインフラが整うといいなと思い、団体としても各方面に働きかけをしています。ひとりでも多くの人が、“快適な産後”をすごせるような社会にしていきたいです。
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■NPO法人マドレボニータ
http://madresbonitas.strikingly.com/
「母となった女性が、産後の養生とリハビリに取り組み、本来持っている力を発揮できる日本社会の実現」をビジョンに掲げ、2007年に設立。産後女性のボディケア・フィットネス教室を全国12都道県60か所で運営しているほか、「産後セルフケアインストラクター」「ボールエクササイズ指導士」の養成、「母となってはたらく」を語る「ワーキングマザーサロン」の開催など、多岐にわたる活動を展開している。2015年、夫婦で産後の準備ができ、出産祝いに産後ケアを贈ることができるアプリ「産後ケアバトン+(プラス)」のアイディアでGoogle インパクトチャレンジのグランプリ(Women Will賞)を受賞。