実はNPO(非営利組織)の存在する意味が分かっていなかった
― 現在のNPOの事業内容について、教えていただけますか?
大阪府池田市で、不登校や発達障がいのある子ども達を支援する、全国初公設民営フリースクールの運営。大阪市では、企業と連携し、ダウン症等の障がいのある若者の、就労支援事業。門真市や箕面市、東大阪市で、子どもや高齢者の繋がりや居場所づくり。福島県南相馬市では、行政と連携して、発達障がいや、さまざまな課題を抱えるこども達の生活訓練や学習支援をする施設「みなみそうまラーニングセンター」や小規模保育施設「原町にこにこ保育園」を運営しています。その他にも事業は多岐に渡ります。
― HPを拝見すると、ソフトバンクさんなど、企業さんからの寄付も受けていらっしゃいますね。
それは震災の影響がすごく大きいんです。以前は大企業とNPOが組むのはハードルが高かったのですが、震災をきっかけに私たちも南相馬に入って、そこでソフトバンクのCSR担当者の方と出会いました。
実は……当時、自分自身はNPO(非営利組織)の存在する意味が、分かっていなかったんですね。でも、震災のような非常事態でも、“公”は常に公平性を求められてしまう。支援したくても、公平性を基準にやりません、やれませんで、様々なことがストップするのを目の当たりにしました。
一方、民間はそれぞれのニーズに合わせた支援をしても、誰にも怒られない。その時、「NPOの役割って“公”と“民”の間にいて、困っている人を助けるということなんだな」と、初めて分かったんです。
そして、現地にいると、とにかくスピード感がいる。1週間で状況がかわっていく、ニーズがかわっていく中、民間企業がそのニーズに合わせていく動きがすごく速くて……。普通の状況だったらライバル会社は相容れないけれど、『震災という状況だからお互い組むことができた』というシーンもたくさん目にしました。
そこから企業とNPOの関係も変わってように感じます。それまではCSR(企業の社会的責任)として、一方的に寄付してもらって「ありがとうございます」という関係でした。ですが、震災後は、公民連携してやっていく中で、本業も含めて企業は社会貢献していかないと続かない。ただ寄付するという一方的な関係性じゃなくて、持続可能な形をつくっていかないと無理だよね……という時代の流れになってきています。
震災をきっかけに、民間企業とNPOの距離がとても近くなってきたな、という感じがありますね。
大人が子どものいいところを、ほめてあげない社会ってなんなんだろう
― あらためてトイボックスをつくられた想い、経緯などを教えていただけますか?
きっかけは、小学2年生の時に、オーストラリアから帰国した時のショックですね。オーストラリアで教育をうけて、日本に帰ってきたら、すごい管理教育で……。
オーストラリアは移民の国で、色々な人たちがいて、多様な価値観があるのが当たり前。みんな自分の“いいところ”を伸ばして、できないことはお互いにフォローし合う。そして、自分の“いいところ”を伸ばした先に自分の仕事があり、自分ができることを人のために使うことが、仕事になっていく。それが当たり前の文化の中で育ちました。
それが8歳に日本に帰って来て、本当に単一の価値観に見えたんですね。子どもからすると、そのギャップにショックを受けたのと、大人が子どものいいところをほめてあげない社会ってなんなんだろう……と。“勉強ができない”ということだけで、評価されて、グレていっちゃう子がいたり……。「それを何とかしたい!」と思いながら大人になりました。
その後、すごく勉強ができる人ばかりの大学に入ったのですが、必ずしも自分がやりたいことが見つかっていたり、これだと思える道が見つかっているわけではないという現状もみました。次第に、「これはもしかして日本の教育システム自体が問われているんじゃないか」と考えるようになりました。
大学卒業後は松下政経塾に入り、現地現場主義で、自分自身が小学生になるような体験もしました。「学校をつくる!」と宣言もしました。その後は、安室ちゃんが通っていた『沖縄アクターズスクール』のオーナーさんと出会って、4年間一緒に取り組みました。それから大阪に出て来て、夫や仲間とともに、トイボックスを起ち上げました。
― 大阪・池田市を選ばれたきっかけは、何かあるんでしょうか?
大阪へは、結婚をきっかけに来たんですよ。結婚後、最初はお金も場所もなかったので、まず不登校の子専門の家庭教師をやります!という三行広告を出しました。三人から依頼があって、その子のうちの一人が最初の生徒ですね。その後、池田市の倉田市長さんに声をかけていただいて、公設民営型のフリースクールを、起ち上げることになりました。
フリースクールって、公的学校の“敵”としか認識されていなかったので、公の施設を使って学校をひらいていいんですか?と、最初は本当にびっくりしました。よく他の自治体の方が視察に来られるのですが、「池田市だからこそできたファーストケース」と言われます。
お弁当を任せられるようになったので、急に出張が増えました!(笑)
― 白井さんのご家庭では、旦那さんも同じNPOで経営者をされていて、家事育児の分担などは、どうなっていますか?
しょっちゅうケンカになりますよね(笑)。なかなかバランスはとれない。「自分はこれだけやってるのに」って、お互い思うし。相手のやっていることは、見えないってこともあります。
基本的には私か夫が家事・育児をやり、どうしても無理なときは、長男が0歳の頃から頼んでいる、シッターさんにお願いしています。前の晩とかに「あ!」と気づいてお願いしたり……。綱渡りですよね(笑)。
私は、出張がすごく多いんです。特に南相馬市には、月に2回は必ず行っています。ちょっと前までは日帰りだったんですけど……。最近は夫がお弁当を上手に作れることがわかっちゃって。最初は信じられなくて、お弁当の写真を送ってもらっていたんです。見てみたら、品数も多いし、ちゃんとしたお弁当だった。お弁当を任せられるようになったので、急に出張が増えました。安心して泊りでもいけるな、と(笑)。
ただ、やっぱりどちらかが負担が大きくなったと感じたときには、「分担を考えなおそうよ」と提案しています。同じ組織に勤めているので、どうしても家庭内で仕事の話になったりするんです。「できるだけ就業時間中に、仕事の相談をしたいよね」と、そういう話は定期的にしています。
世の中から必要とされる限り社会が助けてくれる
― 今後の目標について教えていただけますか?
まず団体としての目標は、しっかり事業をやって、持続可能なカタチを、この1年で作るということ考えています。学校法人化を目指しているのも、その一環です。
今まで、『単年度でお金を集めて運営する』ということを十数年続けてきましたが、それを続けているうちに法律ができて、今では国の予算がつくようになりました。
去年初めて、国と県と市の事業として南相馬に定員10名の小さい保育園をつくりました。きちんと続けていれば、普通に運営費が出る事業を始めてやったんですね。「すごいな!」と思って。スタッフの研修、レベルアップを図ることも、余裕があるからできる。事業費が出る事業をやってみて、初めて安定した経営をし、持続可能なカタチにしていこう、と決心しました。
世の中から必要とされる限り社会が助けてくれる。本当に社会から必要とされ、まじめに地道にやりつづけていく限り、つぶれることはないな、と信じられるようになりました。
― 個人としての今後の目標は?
ものすごく大きいですけど、日本の子どもたち、それぞれがそれぞれにあった教育を受けられるようになってほしい。そうなることで、初めて多様性を受け入れられる社会ができると思っています。
日本にこれだけ多様な子どもたちがいることがはっきりしてきて、そういう子どもたちに対して、それぞれに適切な教育が保障しきれていない、ということを国も認めてしまったという状況です。
それこそフリースクールも“国の敵”と言われる中、20年続けて来て、ある時を境に急に『モデルケース』と言わるようになって……。「こんなに価値観というのは変わるものなんだ」ということを感じました。
― もうすでに個人の目標は半分達成されているのかな、と感じましたが
大阪でずっとNPOをやっていると、目標に近づいてきたのかな……と思ってたんですけれど、地方ではまだまだ浸透していません。不登校に関しても理解が進んでいなかったり、発達障害の子たちも学校で邪魔者扱いだったりする。それを目の前で見ると、中央や都会で話していることと、地方の現場で起きていることにはズレがあるな、と感じるのです。一歩一歩広げていく必要がまだまだありますね。
自分の子どもが生まれて、学校に行き出してから、私がやっていることは、本当にこの子たちの未来に影響するような仕事なんだなということがよくわかってきました。本気で社会の底の部分を整えていかないと、この子たちの将来、生きていく社会に影響するんだな、という実感があります。独身の頃は、仕事とプライベートをわけようとしていたんですが、今では自分の仕事=自分の人生そのものです。そう感じるようになったのは、子どもが生まれてからですね。
子どもたちは絶対伸びるし、自分の道をみつけることができる
― その「子どもたちのために」という強い想いはどこから来ているのでしょう?
やりたいんだか、なんだか分からないんですけど(笑) ずっとこれしかやってきていないから。
ただはっきりわかるのは、本当に子どもたちは打てば響きます。25歳で学校を始めて1、2カ月で分かりました。子どもたちは、確実に変わります。よくなりたくない子って、一人もいません。
ただ上から一方的に言われたり、自信がないところを強く抑えつけると、つぶれちゃうんです。彼らのペースにあわせてできる、という環境さえあれば、彼らは絶対に成長できます。
フリースクールを始めた当初は、この子たちはここでは元気だけれど、社会に出て自立できるのかまだ不安でした。そこから5年、10年たってみんな仕事をして、結婚をして子どもを産んで……。
実は、うちの卒業生は池田市の教育委員会などでも重宝されているんですよ。しんどい子たちの支援員とか、スクールソーシャルワーカーとか、自分の経験を生かして支援をすることができる。みんなやっぱりちゃんと自分の道を見つけて活躍しているのを見て、確信したんです。子どもたちは絶対伸びるし、自分の道をみつけることができる。だったら信じて、私たちはその場を作り続けるしかないんですよね。
Interview by Yuka Yanagisawa/Text by Azumi Nozaki/Photo by Izumi Sera