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株式会社アバンティ会長/渡邊智惠子さんに聞きました(前編)

なぜオーガニックコットンなのか?

なぜオーガニックコットンなのか?

知り合いの方から頼まれ、オーガニックコットン輸入のお手伝いを始めた渡邊さん。
仕事として関わるうちに、オーガニックコットンの持つ社会的意義を痛感。たくさんの方々を巻き込みながら事業を進める傍ら、普及・啓蒙活動にも尽力されてきました。

徹底的な現場主義の観点からメイドインジャパンの素晴らしさを感じ、日本初のオーガニックコットン生地もつくりあげます。やがて社会起業家としての認知が広がり、東日本大震災後の東北での活動、ソーシャルビジネスの可能性へと繋がって行きます。

渡邊さんのエネルギーの源はなんなのか?そんな問いを持ち、お話を伺いました。

 

[関連記事]NPO法人AfriMedico代表/町井 恵理さんに聞きました

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Profile

渡邊智惠子さん(Chieko Watanabe)

株式会社アバンティ代表取締役会長。北海道斜里郡生まれ。1985年株式会社アバンティを設立。日本でのオーガニックコットンの製品製造のパイオニア。企業活動以外に、オーガニックコットンの啓蒙普及と認証機関としてのNPO日本オーガニックコットン協会(JOCA)を設立。グローバルスタンダード(GOTS)の基準作りにも関わる。2009NHK「プロフェッショナル~ 仕事の流儀」に社会起業家として取り上げられる。その後、2011年一般社団法人小諸エコビレッジ設立。2016年一般財団法人森から海へ設立。2017年一般財団法人22世紀に残すもの発起人として活動を始める等各分野でも活動している。

 

■公式サイト

 

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私は本当に現場主義だと思います

私は本当に現場主義だと思います

― オーガニックコットンをビジネスにされたきっかけを教えて頂けますか?

きっかけは、たまたま知り合いの方から声がかかって、アメリカから製品を輸入するお手伝いをして欲しいということだったんですね。 内容は詳しくはわからないけれども、お仕事を頂けるならばありがたくお引き受けします、ということでスタートしました。

それがオーガニックコットンだったんです。

その後、通常のコットンの環境破壊のインパクトに驚いて、それを何とかしていくためにはこのオーガニックコットンの啓蒙・普及というのが必須であるという社会的意義を感じていきました。

「これはやらなくてはいけないことなんだ」と気付かせてもらいました。

― 実際、オーガニックコットンに出会って、ビジネスにしていくというところが難しいところだと思いますが、どのようにビジネス展開されていたんですか?

まず最初は、とにかく素人だったということなんですよね。私1人では何もできないので、 たくさんの人たちを巻き込まなければ実現しなかった。そして奥の深い、とても意義のあることなので、なんとかより多くの人たちの参加を促したいと思いました。

それと同時に、オーガニックコットンを製品化していくプロセスにも、たくさんの人たちに 関わって頂かないと、最終的な製品にはならないということもわかってきました。そのためには、オーガニックコットンの製造過程における基準を作っていくことがすごく大事だなと確信したのです。基準をきちっと作ることによってオーガニックコットンの信頼を 作る、ということを目指して『日本オーガニックコットン協会』を作りました。協会を作って、とにかくたくさんの人たちを巻き込むことを意識していました。

― 最初の一歩として、どんなことを始められたんですか?

専門の会社さん、商社さんに関わって頂きました。販売において、いつも私は「水は川上から川下へ」と言うんです。やはりそれなりの知識とかサイズ、企業規模がある方たちと繋がっていくことが、最初は必要なのです。それが大きなうねりをつくるということだったと思います。

― ”メイドインジャパン”にこだわる理由を教えてください

”メイドインジャパン”には、世界にはない技術と歴史と継承、感性、ありとあらゆるものがまだ残っています。オーガニックコットンの”色を染めない”という観点からすると、テクスチャー(織物の織り方)ということが非常に重要になります。日本ではテクスチャーのバリエーションが本当にたくさんつくれるんです。実はこれはすごいことで、色でごまかすのではなくて、テクス チャーでしっかりと勝負できるということ。それはまさしく”メイドインジャパン”の技術・伝統・感性から来ているんです。だからこそ 私は”メイドインジャパンにこだわりざるを得ない、これで勝負していくんだ、ということ をだんだん感じていきました。

― それは地方に行かれた際に開拓されていったのでしょうか?

オーガニックコットンを扱ってもらうには、実は色々なことをお願いしなければならないんですね。機屋さんにおいては、通常の薬剤を使えないとか、普通のコットンの工程と混ざらないようにして頂くとか。オーガニックコットンだけ製造をしてもらうためには、一旦止めて頂いて、特別な行程をお願いしなければならないのです。なので必ず私は各機屋さんにお伺いをして、お願いをするということをずっとやってきました。

各機屋さんや加工所さんに行きますと、本当に想像以上の奥深さとか技術を感じるんです。これもオーガニックコットンに置き換えられるのではないか、オーガニックコットンでこんなこともできるのではないか、ということを相談してきながらやってきました。

現場に行って世界が広がりました。私は本当に現場主義だと思います。私の性質そのものも、行動型思考人間なんですね。行動しながら思考していく。行動しないと自分の思考が固まって行かないっていうのが、私の長所でもあり、弱点でもあるかなと思うんです。

その辺は、他のメンバーが思考してから行動できるというパターンの人もいるので、やはり横にいて足りない部分をカバーしてもらうところがあります。

 


 

たくさんの人たちに協力・サポートを頂いたことが一番のエネルギー

たくさんの人たちに協力・サポートを頂いたことが一番のエネルギー

― 最初はどちらでオーガニックコットン製品を作られたのですか?

一番最初は、通販会社のカタログハウスさんですね。担当者さんがオーガニックコットンでセーターを作ってください、シャツを作ってくだい、と言ってくださいました。ある程度のロットを作るんですけれども、きちんと最後まで売り切るように、何回もカタログハウスで 掲載してくださいました。

当初アメリカから持ってきた5、6種類生地しかなかったのです。

それでもオーガニックコットンの生地が日本になかったので、勝負できると思って生地を持って行商していたんですよ。

布団とかリビングとかそういうことをやっている大きな会社さんも社長の所に行って、「こんな生地あるのでぜひ使って下さい」と言って交渉したんですよね。

今なら恥ずかしくてそんなことできなかったと思います(笑)。

次に、生地を展示会に出していくとことを考えはじめました。

生地で商売するためには、いずれ日本でも生地を作らなければいけないなと思っていたので、当時、イッセイミヤケの素材作りをされていた宮本英治さんというマイスターのところに相談に伺いました。

そうしたら、「それだったらちゃんと日本で生地をつくろう。とにかく新しい生地の種類を全部企画してあげるから、その生地を持って展示会に出なさい」とおっしゃったんですね。

宮本さんは、400種類の生地のパターンを作ってくださったのと同時に、機屋さんを3軒紹介してくださいました。そこで生地を作り、展覧会に持って行きました。

そのことが、今のアバンティのベースになっています。

当時も各機屋さんに、オーガニックコットンを何とか世界に持っていきたいことや、通常のコットンが起こす環境破壊について熱心に説明をしていきました。

そうするとみなさん、通常のお金を請求してこないんですよ。

新しい素材を作ってくださり、展覧会に必要なメーター数を好きなだけ持っていくのでいいよ、とか。それで注文をもらったら、また生地を買って頂戴というような、そんな声がけをしてくださいました。

オーガニックコットンのスタート時に、本当にたくさんの方から温かい協力を頂いたんですね。

長い目で見ていただき、出世払いでいいよ、というようなことをみなさん言ってくださって、今に至っています。

私にとって、スタート時にたくさんの人たちに協力・サポートを頂いたことが、オーガニックコットンを生業にして継続し、”メイドインジャパン”を世界に発信していくことの一番のエネルギーになっています。

例えば先日、日経新聞さんに取材して頂いたのですが、そういった形で私がメディアに出たり、東日本大震災後に社会貢献として、色々な仕事をしていくっていうこともお返しなんですよね。

私が今こういう風にしていられるということが、サポートしてくれた方々の自慢になる。

「あの渡邊ってね、若い時はちんちくりんでね。こうやって言ってきてね。何もわかんないんだけどお願いしますって言ってきたんだよ」って言う。そういうことを言って頂けることが、私にとってはひとつの勲章になっているのかなって思ってます。

 


 

やはり仕事が希望であり、生きがいであり、その人の人生だって思うから

やはり仕事が希望であり、生きがいであり、その人の人生だって思うから

― 渡邊さんの人を巻き込んでいく力が素晴らしいとお話を伺いながら思っていたのですが、昔から得意だったんですか?

私、もともと明るいじゃないですか。でね、明るいっていうことが全てなんですよ。明るいところに人が寄ってくるんです。物が寄ってくるんです。そしたらね、お金も寄ってくるんです。最低限明るくなくちゃだめなんです。苦しい中でも、感謝していること。そういうことを自分の中で染み込ませていくっていうのが大事かなって思ってるんですね。 そして謙虚さ。謙虚ってやっぱり感謝なんですよね。感謝が謙虚さに繋がっていくかもしれない。

あとは、やはり何かあった時に素直に対応できるように、心を空にして、入ってくるものは拒まずって言う、おおらかさっていうのが必要なのかなって思っています。そういうことがあると、いろんな人が寄ってくるんです。

あと、私はいつも目標を立てているのですが、あまりにも大きくって一人ではやりこなせな いような目標をいつも考えています。 だから必然といろんな人のサポートを得ないといけないんですよね。その夢を叶えるためには、 その夢を自分の中で「絶対これよ」って感じるところまで落とし込むと、エネルギーが出て くるし、いろんな人が巻き込まれてくるって思います。

自分一人ではできない目標を立てることを”志”って言うんですよね。 私はやっぱり志が高い、気高い生き方をしたいなって思っています。

―(会社の事業のひとつ)ソーシャル事業部を始められたきっかけを教えてください

2010年の12月に NHK のプロフェッショナル仕事の流儀という番組に取り上げられたんです。その中でついた私のタイトルが”社会起業家”だったんです。 社会起業家っていうのは社会問題をビジネスによって解決する人のことなんですね。

オーガニックコットンをビジネスにしているということ自体が、「社会起業家である」という風に考えてくださり、その時のディレクターの方がタイトルをつけてくださいました。

世の中には社会問題をビジネスにしてる人いっぱいいるじゃないですか。それにもかかわらず私を選んでくれたのはどうしてなんですか?と聞いた時に、彼は「先物買いです」っておっしゃったんです。「先物買いということは、これから渡辺さんが将来、もっともっと大きいことをやっていくだろう、そう思ってるからなんですよ」

って言ってくれたんですね。それが私にとって一つのエネルギーになりました。

そして次の年の3月11日に東日本大震災があり、自分として名実ともに社会起業家になろうって決めたんです。

この大災害の中で”仕事をつくる”ということが、私にとって社会起業家としての一つの使命であろうと思ったんです。

ずっと仕事人間でしたから、仕事が一夜にしてなくなった時に、人ってどうなっちゃうんだろうと考えました。やはり仕事が希望であり、生きがいであり、その人の人生だって思うから。

じゃあ私は、仕事がなくなった方々に仕事を作ろうと思って、ここまで来ました。

東北グランマの仕事づくりですとか、ふくしまオーガニックコットンプロジェクトですと か、色々なことを続けてきて、社会問題をビジネスに変えるって言うことをしてきたんですけれども、やはりどれも一人ではできないんですよ。

より多くの人たちに関わってもらわないとできない。​渡邊智惠子​の被害者の会というのがあるそうなんですけども(笑)、それくらいとにかく人を巻き込んでいます。

 


▼後編につづく

子育てをしながら事業を続けるには?

 

Interview by Yuka Yanagisawa/Text by Azumi Nozaki

 

Mompreneurs Network Japan

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